
Posted on 2026.07.30

ロージャースの礎を築いたジューン・タナカの人生 ― 5つのステージ
ステージ1 モンタナと広島
ジューン・テルエ・サカモトは、1919年7月28日モンタナ州で生まれました。
7人兄弟の2番目で、父と叔父が開墾したテンサイ農場で育ちました。
彼女は、帰米子女として恵まれた幼少期を過ごし、学期中はアメリカの学校に通い、夏は広島で過ごして日本文化、女性の嗜みを学び、幼い頃から裁縫や手芸に優れ、その才能は後にファッションデザイナーとしてのキャリアへと繋がっていきます。
ステージ2 ロサンゼルス/アリゾナ(第二次世界大戦)
ジューンはサミー・タナカと結婚し、ロサンゼルスで新居を構え、愛情深い夫と生まれたばかりの娘マーリーンと理想的な生活を送っていました。
しかし、真珠湾攻撃によってその生活は一変、西海岸に住む日系人は強制収容所へ送られ、彼女と家族もアリゾナへ移送されます。
戦争は政治的な考え方の違いを生み、結果として夫婦は別離に至りました。
ステージ3 東京(PX)
戦後まもなく、シングルマザーとなったジューンはファッションデザイナーとして仕事を探し、東京のPX(米軍売店)でコンセッションを獲得します。
数名の縫製スタッフを雇い、着物の生地を使ったカクテルドレスはアメリカ人の軍人の妻たちに人気を博し、顧客の中には、ダグラス・マッカーサー将軍の夫人ジーン・マッカーサーもおり、二人は親しい友人となりました。
ステージ4 東京・沖縄のロージャース百貨店
ジューンの才能はロジャー・ウィリアムズの耳にも届き、1952年、東京芝田村町に開業した「ロージャース」のスタイリストとして迎えられます。
彼女は責任者としてバイヤーも兼務し、米国内外を渡って商品を選定、ファッションショーの企画・運営も行いました。顧客には日本の皇室関係者や上流階級の人々も含まれていました。
1954年、ロジャー・ウィリアムズは沖縄への移設にともないジューンに同行を求めます。彼女は当初ためらいましたが、「1年間だけ」という条件で娘を東京の友人に預け沖縄へ渡ります。
しかし1年が過ぎる頃、待遇改善や娘との同居を条件に引き留められ滞在は数年に及びました。
1960年42歳の頃、ジューンは娘と共に米国サンフランシスコに移住することを決意します。
ステージ5 サンフランシスコ
(ガンプス/靴店経営/ロージャース・プラザハウスのバイヤー)
活動的な彼女はサンフランシスコの高級店ガンプスでコンサルタントとして働きます。
さらに、近隣にあったレストランで毎週金曜にファッションショーを行い、そこで出会ったレイモンド・ピンカーマンと再婚、1970年にはサンフランシスコのマリーナ地区でスイスの「バリー」を中心に革製品やアクセサリーを取り扱うシューブティックを開業します。
同時に、ロージャースにとってアメリカ在住のバイヤーが有益とされ、ジューンは沖縄向けにアメリカ製品を供給する役割を担うことになります。
この業務は彼女の卓越したマルチタスク能力によって成立し、ロージャースのクオリティ維持に大きく貢献しました。
1991年8月6日、ジューンは72歳を目前にしてこの世を去ります。
その後、沖縄との関係は娘マーリーンに引き継がれ、マーリーン引退後は毎年届くクリスマスカードが私たちの絆を紡いできました。
ロージャースの歴史が70年を超え、その原点を探るにあたり、マッカーサー夫人と共に映るジューンの写真と、ここに紹介した一人の女性の凄まじい人生の物語が手元に届きました。
”ジューンは本質的には非常にタフなビジネスウーマンでしたが、
常に勤勉でエネルギーと才能にあふれ、人当たりが良く、何事にも臆せず
挑戦を楽しむ人物でした。これこそが、彼女の残した大きな遺産です。〟
最後に綴られた母を語る娘の一文は、私たちの財産として大切に胸に抱きます。